グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

大相撲のリアル

国内で初めて、二十代の死者が相撲業界からでたというニュースには考えさせられるものがある。28才で3段目というだけでも、もう関取りに上がる見込みなんてぜんぜんなさそうなのにこの年にもなって続けるものなのかなあ、と思うが、その上糖尿病の持病まであるというからなおさらびっくりしてしまう。糖尿病の持病がありながら力士ってできるものなのだろうか?医者は引退を勧告しないのか?そういう基礎疾患を抱えて、先の見込みがなさそうな状況で相撲を取り続けるのはなぜだろう。相撲取りなんて見込みがなさそうならさっさと辞めるような人たちだと思っていたが、引退した力士のリストを見ると関取りとはほど遠い番付で相撲を取り続け、三十代半ばになってから引退する、みたいな人もかなりいる。相撲業界の現実の一端が分かった気がした。様々な業界の真実を明らかにしてしまうコロナウイルスだが、相撲業界もその例外ではなかった、ということだろうか。

一部の演劇関係者が叩かれる自然

一部の演劇関係者が叩かれることに対しては様々な批判がある。こういう、叩いてOKになった人をここぞとばかり叩くのは醜悪であるとか、こういう演劇関係者が本当に何を言いたいのか考えるべきだとか、そういうものだ。しかし、これらの批判は僕にはまったくの見当違いに聞こえる。なぜなら、一部の演劇人の発言の背後には、演劇みたいな文化的なことに価値を見出す一方で、そういう文化的なこととは正反対の世界を見下すという中産階級的な価値観がはっきりと存在するからだ。スポーツ選手がスポーツをするよりも演劇関係者が演劇をする方が価値があると内心思っているから「演劇はスポーツとは違う」という発言が出てくるし、工場で工員をしているよりも演劇関係者が演劇をしているほうが価値があると内心思っているから「演劇は製造業とは違う」という発言が出てくるのである。そして、そういう価値観が完全に当たり前になってしまっているからカネのことを話すにしても、支援をお願いするというよりは、自分たちが支援を受けるのは当然で国がそのような義務を怠るのはけしからん!というような感じになってしまうのだ。これでは叩かれるのは当たり前で、だから世間が一部の演劇関係者を叩くのは非常に自然なことなのだが、自然と言えば世間から叩かれるような発言を繰り返してしまう演劇関係者のあり方だって自然である。そういう価値観のもとで育った人が文化的でないことを内心見下しながら言いたいことを言って好きなことをやる。それはそれで、考えてみたら自然であるのだ。仕方がないではないか、文化的でないことを見下す人間が演劇の世界に一人もいなかったとしたらそれこそ異常というべきだろう。世間が演劇関係者にひどいことをいうのも自然であれば、演劇関係者が世間に叩かれるようなことを言って叩かれるのも自然である。全ては自然なのであり、だから何の問題もないのだ。

コロナウィルスによる死はそんなに悪いか?

なぜコロナウィルスのせいで世の中がこんなことになっているのかというと、一つは感染力がかなり強いこと、それもあって重症化した患者が大量の医療リソースを消費すること、が理由として挙げられる。だから当然、医療崩壊を防ぐために経済封鎖へとなだれ込むという流れになるしかないが、しかしながらそもそも、コロナウィルスによる死はそんなに悪いものであるのだろうか?コロナウィルスで亡くなる場合は昏睡状態になるというが、昏睡したまま亡くなるというのは(どんな死に方でも死ぬときには昏睡状態になるのだろうが)死に方としてそんなに悪いものであるとは思えない。今回コロナウィルスで亡くなった人でも、コロナウィルスで亡くならなければもっと悲惨な死に方をした人がいくらでもいるのではないだろうか。コロナウィルスによって亡くなる人は基本的にはコロナウィルスでなくてもそのうち亡くなる人である上、コロナウィルスによる死者数はせいぜい数百人程度でしかない。普通のインフルエンザによる死者数は1日あたり100人くらいであるというから、コロナウィルスによる死者数はせいぜい普通のインフルエンザによる死者数1週間分でしかないのである。もちろん、この死者数はコロナウィルスに対する様々な対策がなされた上でのものなので、普通のインフルエンザのほうがコロナウィルスよりも危険であるということにはならない。しかしながら冷静になって考えるとコロナウィルスの危険性はその程度である、ともいえる。人はどうせ死ぬ。日本人だけで年間100万人も死んでいる。結局、コロナウィルスは医療崩壊を起こさない程度に流行させてできるだけ早くに終息させる方が合理的で、世の中の流れもだいたいそのようなものになって来ているように見える。

演劇とオリンピック

つい最近、やたらと叩かれて世間の注目を集めた演劇業界だが、これってけっこうスポーツ業界と似ているところがあると思う。たとえば、スポーツと一言で言ってもメジャーなスポーツとマイナーなスポーツではそれぞれ扱いが違うわけで、何の因果かマイナーなスポーツで競技生活を送ることになった人たちが活動資金を調達するために大変な苦労をしている、なんて話はしばしばテレビなどで伝え聞く所である。もちろん、一部のメジャースポーツでは活動資金の心配が全くないどころか場合によっては一年につき何億もの収入を得るわけだが、メジャースポーツをやっていたとしてもそんな幸運に恵まれている人は全体を考えるとほんの一部で、割合から言うといろいろと苦労しながら競技生活を続けている人の方が多いに違いない。演劇の世界でも、「芸能人」として経済的に大成功する人だっている。しかしそのような成功をする人はほんの一部で、大多数はマイナースポーツの選手だったりセミプロみたいな感じで細々と活動をしている「アスリート」と同じようなものだろう。結局は人々の夢の上に成り立つ業界であるのはスポーツ業界と変わらないんだろうなあ、と思う。

日本で文化は贅沢か?

日本にはもう文化は贅沢なんだと思う

https://anond.hatelabo.jp/20200505111628

日本は貧しくなった、みたいなことはもう何十年も前から言われていることだけれども、物質的な面から言えば、いまの日本は空前絶後の豊かさを享受しているとも考えられる。たとえば100年前の日本と今の日本を比べてみると誰がどう考えても今の日本の方が豊かなのは明らかで、もし今の日本よりも100年前の日本のほうが豊かだと主張すれば頭がおかしいと思われるだろう。しかし、もし今の日本が100年前の日本よりも豊かであるというのならば、国家が豊かでなければ文化が成り立たないという議論は何なんだろう?と思う。100年前の日本は今よりも貧しかったが、100年前の日本に文化がなかったという人は誰もいない。それならば未来において日本で文化が成り立たなくなるなんてことがあるわけない。文化というものは必死になって成り立たせようという努力があってやっと成立するものではない。それは本質的にはずるずると続いていくものである。日本という国がずるずると続いていくように、日本の文化もずるずると続いていくだろう。

演劇と世の中の変わらなさ

演劇界隈炎上への雑感|出世景清|note

https://note.com/waratteyoritomo/n/ne7af1edc2e32

演劇界は「貧乏だから支援してほしい」のではない。芸術を失うことが社会的な損失になる理由【劇作家・平田オリザ】 | J-WAVE NEWS

https://news.j-wave.fm/news/2020/04/post-5702.html

芸術というのは維持するのにとてもコストがかかる。そのコストにはいろいろなものがあるが、世間が負担する心理的なコストも無視できないだけあるだろう。はっきりいって、芸術に関わる人たちには面倒な人が多い。それは今回、コロナウイルスの影響を受けて打撃を被った演劇業界への支援を求める演劇関係者の態度を見てもわかる。これらの関係者の発言には、どこか人々を苛立たせるものがある。同じ内容でも他の言い方をすれば世間は少しは納得するはずのものでも、わざわざ世間の神経を苛立たせるような言い方をしてしまう(そして言った後で、別の言い方をすればよかったな、と後悔したりするのだろう)。まあ、そのような演劇関係者は一部の既得権益がある人たちだけなのかもしれないけれども、たぶん演劇関係者の中にはそういう人たちが沢山いて、そういう人たちはそういうところがあるから演劇なんかをやっているのである。それでは、今回のコロナウイルスの影響でそういう人たちの居場所がなくなってしまったらどうなるか?こういう人たちの才能は演劇でしか発揮されないものだからこれは社会の損失であるというのが演劇関係者の主張で、確かにそれはそうであるのだろうが、その一方でべつに演劇なんかがなくなっても世間がお構いなしに動いていくのは間違いない。もし演劇がなくなった影響でテレビがその分だけ面白くなくなったとしたら人々のテレビを見る時間がその分だけ少なくなるだけだし、何かの因果で逆にテレビが面白くなるかもしれない。そもそもにして、演劇というのは多額のコストがかかる表現であるというのが問題なのだから、演劇がなくなっても単に演劇からもっとコストのかからない表現形態へと才能が移動するだけなような気もする。今年の夏、オリンピックはなくなった。そして世間はオリンピックなんて完全に忘れてしまっている。もちろん来年とか再来年にはオリンピックがあるのだろうが、もしこれがなくなったとしてもオリンピックのことなんて世間は忘れたままだろう。オリンピックですらそうなのだから演劇なんかはなおさらどうでもいいわけで、演劇関係者はこの当たり前の事実を再確認することになるだけのような気がしないでもない。

原発事故とオリンピック

福島の原発事故があってから9年がたった。あの頃に放射能が怖くて東京から逃げ出した連中は今頃どうしているのだろうか?とにかく、どこをみても放射能の話なんて全然聞かない。9年前はあれほど騒いでいたのに、である。東京オリンピックは1年延期となるようだ。1年延期が現実的ではなかったとしてもその1年後にやるのだろう。だから東京オリンピックが中止となることはないと思うが、しかし中止になったとしてもそんなことはすぐに忘れてしまうのだろう。福島の原発事故をみんなそろって忘れてしまっているように、である。