グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

炎天下でコーラを飲むとうまい

とんでもなく暑い日が続いている。

夏ってこんなに暑かったかなあ、とびっくりするくらい暑い。

普段は空調の効いた部屋でひきこもっているからいいが(いや、よくはないかもしれないが)、外にでると強烈な直射日光が照り付けてくる。

たかが日光でも、強烈になるとこんな灼熱といっていいような感じになるものなのか。

文章で書くとなんでもないが、とにかく2か月前には全く想像もできなかったほどの暑さが続く。

 

先日も、そういう感じの日に外出をした。

市街地に用があったので、いつもの通りにバス停に向かった。

ところが、炎天下の中で十数分歩いてやっとバス停にたどり着こうというときに、バスは僕を置き去りにして勝手に走って行ってしまった。

こういう風にバスとすれ違うと、いつも大損した気分になる。

この炎天下でさらに十数分なりなんなりの時間、バスを待つことになるのか、と本当にうんざりした。

 

はっきりいってやってられないので、バス停の近くの自動販売機で飲み物を買う事にした。

そういえば、僕はバスを待つときに飲み物を買った事はなかった。

数十年生きてきて何で一度もなかったのか今考えると不思議だが、ジュースを飲みながらバスを待つというのは自分でもいいアイディアだと思った。

飲み物はコーラにした。

他の飲み物だと、この強烈な暑さに合わないような気がした。

 

それでコーラを飲みながらバスを待つことにしたわけだが、やはりコーラというのは炎天下にものすごい合うな、と思った。

なによりも、あの赤い缶のデザインがものすごい夏のイメージにあっている。

もしかして、炎天下の夏のイメージに合わせてあの缶のデザインが決まっているのかもしれない。

そんなことを考えるくらい、先日に買った缶コーラは夏にぴったりの飲み物に見えた。

味のほうも、やはりコーラは強烈な暑さの中で飲むのがぴったりな味である。

正直、単体で飲むなら、べつに涙が出てくるほどうまい飲み物とは思わないが(まあ、清涼飲料水なんんてそんなものだが)、しかし人工的でもどこか懐かしいテイストは、まさに真夏の飲み物である。

 

炎天下の中で、コーラを啜りながらバスを待つというのはなかなか良い。

コーラがあるから、いくら炎天下であっても全然気にならない。

逆に、コーラをおいしく飲むには炎天下であるほどいいのである。

そういう風にして、のんびりとバスを待つというのはなかなか贅沢な時間である。

そうしていると、やっぱり夏というのはいいなあ、と心から思える。

炎天下でバスとか列車とすれ違って十分なり二十分なり待たないといけない場合、自動販売機などで例の赤い缶を買い求めるのは本当にお勧めである。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

夜、20年くらい前に卒業した中学校に行った

最寄りのドラッグストアで買い物をするとき、僕はだいたいおやつを買う。

僕の家はおやつを食う習慣があまりないので、家でひきこもっている僕にとってはドラッグストアから帰宅するまでの帰り道がおやつの時間になっており、これが平凡な毎日の中でいくつかある楽しみの一つとなっている。

その日はモナ王3つを買った。

過ごしやすい夏の日だったので、久しぶりにアイスでも食うか、と思ったのである。 

モナ王を買うときに、2つにするか3つにするかで少し迷った。

もしモナ王2つならば、家に到着する前にモナ王を全部食べ終えてしまうだろう。

しかし、モナ王3つならば、家に着いた時点でモナ王を食べ終わってないから、家に早く入りたいのにしばらく家の前かどこかでモナ王を食べ終えなければならない(家の中で食えばいいのだが、家人の前で自分だけアイスを食っているのは気が引ける)。 

モナ王2つがいいか、モナ王3つがいいか? 

その日の選択はモナ王3つだった。

どうもモナ王2つでは数が中途半端に思えたのである。

 

僕は閉店の合図の「蛍の光」を聞きながら、レジにモナ王3つを差し出した。

 

ところが、モナ王を3つ買った後で、急に、このまま家に帰るのは面白くないような気がしてきた。

モナ王3つに対して、ドラッグストアから家までの距離は短すぎてバランスが取れていないような気がしてきた。

(仕方がない、どこか他のところに行ってみるか)

そう考えて、僕はドラッグストアからどこに行くかを考え始めた。

近所の中型書店はどうか?

書店はこの前行った。

他に何か、もっと違う所はないのか?

 

そこで思い出したのは、僕が卒業した市立中学校である。

学校というのは普通、交通のアクセスがいい所に設置されるものだが、僕の出身中学は幹線道路から離れて住宅地の片隅にあるから、用がないので近くを通る機会がない。

この中学校に久しぶりに行ってみよう、と思ったのだ。

普段中学時代の事はすっかり忘れているのに、なぜ突然、出身中学に行こうという事を思いついたのかは分からない。

長い間、潜在意識の中では気になっていたのかもしれない。

僕はモナ王を齧りながら、ふらふらと中学校の方へと歩きだした。

 

中学校に向かいながら、僕は同級だった知人、友人の事を思い出していた。

これらの知人、友人との関係は悪くなかったが、その関係は表面的なものだったような気がする。

もう少し色々な話をすれば良かったな、と改めて悔やまれる。

当時の知人、友人から学ぶ事は沢山あったはずだ。

しかし、あの当時、僕の家は秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大受刑囚のものと同じようなものだった。

テレビ禁止、ゲーム禁止、「スポーツすると馬鹿になる」とスポーツまで禁止なのだから、今考えてみてもそれは気違いじみていた。

テレビも見れず、ゲームもスポーツもできず、他の子供との接点を十分に持つことが出来なかったのは残念でならない。

本当に、地獄のような日々だった。

ほとんど拷問といってよい。

 

僕は中学では、業者のテストで全学年240人中いつも7番くらいだった。

もうすでに視力のトラブルが出始めていた事を考えれば、割とよくやった方だと思う。

僕の中学からは20人くらいトップ高に行ったので、全学年で7番だったらトップ高に余裕で受かる。

そして、実際にトップ高の入試には余裕で合格したのだが、入学式の頃にはすでに秀才ができるような状態とは程遠く、あとは糸が切れた凧のように吹き飛ばされていくだけだった。

小中学生だった頃も8割くらいは死んでいたようなものだったが、高校になって完全にとどめを刺された。

 

30になる前、僕は、ああすればよかった、こうすればよかった、と後悔をしてばかりいた。

しかし、30になってだんだん健康が回復し始めると、あの当時はどうしようもなかったんだ、という事がはっきりと分かるようになってきた。

理屈ではなくて、あれは無理だった、とはっきり分かるのだ。

中学のころ、僕はそれなりにアドバンテージがあったと思う。

アドバンテージはあったと思うが、ディスアドバンテージがあまりにも強烈すぎた。

 

左手に、いきなり中学校が現れた。

長年見ていなかった中学校は、なんだかずいぶん小さく見えた。

小学校から中学校に入学した当時のスケール感覚が今でも記憶に残っているからかもしれない。

多分、僕の身長が大きくなった分、学校が小さく見えるのだ。

建物の高さも、学校の敷地もほとんど3割くらい小さいように感じた。

教師が残業しているのか、体育館と校舎の一部に明かりがついていた。

僕が在籍したころの若手教師も、今では完全に中年である。

関係者以外立ち入り禁止、の注意を無視してグラウンドを少し歩いた。

あたりには物音ひとつしない。

 

考えてみたら、中学時代というのは僕が生徒として生きる事ができた最後の時代である。

高校、大学時代はもう完全に廃人になってしまっていたので、なんというか、高校生とか大学生をした、という気がしない。

だから、僕の学生時代というのは実質、中学校で終わりなのである。

それもあるのか、長年の間をおいて中学校の校舎を訪れてみるとものすごい懐かしい。

懐かしいし、原点に返った気がする。

自分がいったい誰なのかを思い出した気がする。

 

僕は子供の頃から、「世界はなぜ、こうなのか」という事を考えて生きてきた。

子供の頃の疑問に答えるために今まで生きてきたといってよい。

そして、その当時の疑問にはとりあえず一通り、はっきりと納得できる答えが出せたと思っている。

だから今までの人生に後悔は一切ない。

僕は今、卒業した中学校から2kmくらい離れた家でひきこもっているけれども、精神的にはとんでもなく遠くまで来た。

もしかして、僕の経験した病苦は、あるいは毒親家庭で育ったという経験すらも、「お前に考える時間をやる」という天からの贈り物だったのかもしれない。

 

僕は「オレはこのままで終わらない」というような事をいうつもりはない。

そんな空元気を出しても仕方がない。

僕はこれからどうなるのだろう。

これからなにか大きな転機があるのか?

それともこのまま人知れず、ひっそりと滅びていくのだろうか?

しかし、極限状態で理解した事を世に伝えるという義務はある。

僕にそれを世に伝えるだけの力があるかは分からないが、義務はある。

 

そんな事を考えながら帰途に就いた。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。 

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

 

ブログを書くよりアルバイトをする方が価値がある、とは言えないと思う

どうも最近、アルバイトをするよりもブログをやったがいい、というような(よくある)エントリーを書いた人がいるらしくて、一部で話題になっている。

僕はそのエントリーは読んでいないが、まあ「プロブロガー」がいうような事が書いてあるのだろう。

そういうエントリーに対する反応というのも、まあ、大体予測できるし、全くもっともなものである。

たとえば、アルバイトをするという経験はアルバイトをしなければ得られない、つまり後からカネを出しても得られないような貴重な経験だから、ブログなんかにリソースを全振りするのはもったいない、というものだ。

でも、僕はこの議論をもってしてブログをやるよりアルバイトをしたほうがいい、とは言い切れないと思う。

ブログをやる事も経験の一つには違いないからだ。

 

僕がブログを初めて驚いたのは、ブログというのは全然読まれないものなんだなあ、という事だ。

ブログを始める前、僕はブログというのは何か有意義なものを少し書けば、それはすぐさま、検索エンジンによってめざとく拾い上げられるものだと思っていた。

要するに、「今の時代はどんな情報でも検索エンジンは見つけてくる」というような世間の言葉をそのまま信じていたわけである。

ところが、ブログを一年続けて分かったのは、自分が伝えたい情報を流通させる手段として、検索エンジンはほとんど役に立たない、という事だ。

 

僕は以前ブログで、フランス語を3か月、ネットだけを使って勉強する、という企画をやった事がある。

globalizer-ja.hatenablog.com

このエントリーを一つ書くために、僕は本当に3か月フランス語を勉強して、フランス語で書かれたものならば辞書なしでも大体9割くらいは分かるようになった。 

そして、このエントリーにはその時にどう勉強したかが全部書いてある。

自分でも内容には自信があるし、正直、フランス語の勉強法で僕の書いたエントリーよりも役に立つものを見たことがない。

フランス語を勉強しようかな、と思っている人にとって、僕のエントリーは絶対に役に立つと今でも思っている。

 

しかし、ではこのエントリーが読まれているか、というと、はっきりいってほとんど読まれていない。

せいぜい、一日に1回か2回アクセスがある程度だ。 

フランス語を勉強してみたい♡なんて考えているOLなんて、世の中に百万人くらいいるはずだが、そのようなOLが百万人いようが、僕のエントリーは全く読まれない。

あれくらいの長文を書いても、ぜんぜんアクセスがないのである。

 

他のコンテンツもまあ、似たようなものだ。

何を書いても、不思議なくらいアクセスがない。

それで、関連したキーワードで検索すると、自分が書いたエントリーよりも価値があるとはどうしても思えないようなエントリーが延々と表示される。

昔、「ここはひどいインターネットですね!」 という言い方が話題になった事があったが、検索エンジン自体がひどいインターネットなのだ。

もちろん、僕のエントリーが読まれないのは読まれるための努力(SEO対策など)をしていないからだが、そのような努力をしなければいけない事自体がすでに「ひどいインターネット」である。

僕としては、そんなことをするよりは記事を書く事に集中したいし、実際にそうしているけれども、そうするとアクセスはほとんどゼロになる。

ほとんどゼロのものをいくら掛けてもほとんどゼロだから、いくら記事を書いても、ブログのアクセスはびっくりするほど変わらない。

 

検索エンジンがひどいインターネットである上に、少しマイナーな話題になると検索は激減する。

これは、プロ野球選手の年収が何千万なのにマイナースポーツの選手が貧乏である事に似ている所がある。

プロ野球選手の年収が何千万なのは野球業界に流れこむカネが巨額だからで(もっとも、プロ野球選手の全員が何千万の年収をもらっているわけではないが)、マイナースポーツの選手が貧乏なのはマイナースポーツに流れ込むカネ自体が少ないからである。

検索というのもこれに似ていて、マイナーな検索キーで検索をする人というのは本当に少ないのである。

インターネットを使う人というのは日本だけで一日何千万人いるわけで、これだけの人がいるならばどんなマニアックな検索キーでもたくさんの人が検索をしているように思えるが、実際その検索キーで検索をする人というのは一日に一人か二人、ということもありうる。

というか、少しでもマイナーな検索キーならばそちらのほうが普通かもしれない。

マイナースポーツをやっている人だと、自分がやっているスポーツがいかにマイナーであるかは日々思い知らされるだろうが、往々にして、マイナーな分野に関心を持っている人は、自分が関心を持っている事がいかにマイナーなのか良くわかっていない。

たしかに、検索エンジンの場合は、検索エンジンを使うのに必要な能力が普通のユーザーの能力の限度をはるかに超えている、という側面もあるが、とにかく、検索エンジンがひどいインターネットな上にすこしメジャーでない事を書くと検索自体がされない。

だから、なにか自分が本当に重要だと思う事を書くと、こんなに読まれないものなのか、とびっくりすることになる。

 

その一方で、世の中には意外な情報に人気?がある。

実は、僕のブログで一番読まれているのは、日清カップヌードルのチリトマト味を取り上げたエントリーである。

globalizer-ja.hatenablog.com

読まれているといっても一日に20アクセスとかその程度だが、ともかくこの記事が一番読まれている。

どういう人がこの記事を読んでいるのかは分からない。

この記事への20アクセスのほとんどが流通業者とかだっとしても僕は驚かないが、とにかくこの記事は安定して読まれているのだ。

一体、3か月を使って書いたフランス語のエントリーを読む人がほとんどゼロで、カップラーメンの記事を書いたらブログの中で一番読まれる記事になる、なんて、誰が予想するだろうか?

しかも、このブログは飲食料の紹介に力を入れているわけでもなく、そのようなエントリーは5つか6つくらいしかないのだ。

このような事は、いくらアルバイトをやっても絶対にわからない。

アルバイトをやって分かる事もあれば、ブログをやって分かる事もある。

 

僕は、それなりに儲かるブログを作るのは普通に出来る、と思う。

要するに、儲かりそうな分野を趣味にすればよいのだ。

自分が関心ある分野がぜんぜんブログでの金儲けにつながらないものだからいけないわけで、クレジットカードとかゲームとかアニメとか漫画とかラーメンなど、そのようなものを趣味にすればよい。

僕のブログにしたって、カップラーメンを100種類食べてエントリーを100書けば、それだけで僕のブログのアクセスは(元のアクセス数が非常にすくないので)数十倍になるだろう。

そうした上で、おすすめのエントリーみたいな形で、先ほどのフランス語学習のエントリーを紹介すれば、少なくとも今よりは読まれるようになるかもしれない。

 

ある意味、インターネットというのは世の中の真の姿を映す鏡のようなものである。

ひどいインターネットを通してひどい世の中を理解した上で、それなりにやりがいのある方法で、それなりに楽しくカネを稼ぐ事を勉強する、ということは十分に意義がある事だと思う。

そして、そのノウハウは社会人になっても役に立つのではないだろうか。

多分、学生にとって一番いいのは、アルバイトをやりながらブログをする事だろう。

これだと少し忙しすぎるような気もするが、得るものは少なくないと思う。

仮にブログの運営がうまくいかなくても、ブログを書く事で得られたものは失われない。

僕のフランス語学習のエントリーは誰にも読まれないが、僕がそのエントリーを書くために学んだフランス語の知識が無意味になるわけでもない。

 

なんだか自分でも何がいいたいのか分からなくなってきたが、最後に言いたいのは、無理をするな、ということだ。

ブログに全振りするのが自然ならばブログに全振りすればいいが、そうでないならばブログに全振りするなんて絶対にしてはいけない。

どうも、ブログの世界の一部では「背水の陣」をしく事を煽る傾向があるが、そのような事をしても絶対にうまくいかない。

「背水の陣」で生まれ変われるならば苦労はない。

「背水の陣」をしく前に出来ない事が「背水の陣」をしいた後でも出来ないのは、ブログの世界でも変わりがない。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

日本の教育と「Made In Japan」

日本の教育というのは日本の製造業に似ているなあ、と思うことがある。

どちらも「良いものを大量に」ということを目標にしていると思うのだ。

日本の工業製品が工場(それが日本にあるのか中国にあるのか、あるいは地球のどこかにあるのかは場合によるだろうが)で大量生産されるならば、日本の学校というのは国民を大量生産する国民製造工場というべきものかもしれない。

 

もし学校が一種の工場であるならば、問題となるのは品質管理で、日本のメーカーと同じように日本の学校はこの品質管理が相当しっかりされている。

日本の工業製品にはある種の均質性があるけれども、日本の教育の生産物である国民にもやはり、ある種の均質性がある。

普段、日本国民が便利・安心・安全な生活を享受できたのも、この教育における品質管理がしっかり出来ている事が大きい。

そして、日本社会というのはこの、「よい」人材が大量に供給される、という事に基づいて成り立っている。

新卒一括採用・終身雇用などの風習は典型的で、これらは安定した品質をもつ人材が大量に供給される、という事を前提にしたシステムだと思うのだ。

 

しかしながら、今、日本の製造業と日本の教育は共通の問題を抱えているように見える。

日本の家電製品に使いもしない機能が満載されているのと同様、日本の教育も必要のない教育のせいでコスト高になっている。

もっといえば、ぼったくりをする目的でコスト高にしているのだ。

家電製品の場合は少しばかりカネがぼったくられるだけだが、教育の場合は(税金を含む)カネに加えて生徒の時間がぼったくられる。

そして、その割に基本的な部分はものすごい適当だったりする。

基本的な冠詞の使い分けもロクに教えられない英語教育などはいい例だ。

 

思うに、日本の製造業も日本の教育も、何だかんだでそれなりに良い品質のものを製造していると思うのだが、時代が求めているものを供給する、という意味ではすこしズレている気がする。

特に教育の場合は競争というものがないから、教育関係者の自己満足、つまり理想の子供を作るという事があるばかりで、世の中がどのような人間を必要としているのか、という観点が希薄である。

教育を人材を製造する工場だとすると、今、その工場ではどのような製品が作られているのか?

そして、これからの国民製造工場では、どのような製品を製造することを目指すべきなのか?

製品にどのような性能を持たせることを目指すべきか、製品の品質管理はどの程度おこなえばよいか、製造コストはどこに、どの程度かければいいのか?

教育というのは、製造プロセスにかかる期間が非常に長いし、性能とか品質を計測しずらい人というものを製造するものなので、それが製造業であるということがあいまいになっている。

今こそ学校を工場みたいなものと考える事が必要なのではないだろうか。

教育を製造業とみなした場合、それは無駄だらけである。 

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

日本の小中学生の学力が高いのは良い事か?

普通、学力が高いという事は無条件でいい事だとされている。

しかし、子供の学力が高いのは善である、という事は、本当に疑う必要のない真理なのだろうか?

 

国際的にみて、日本の小中学生の学力は高い。

たとえば、日本人ならば誰でも、おつりは暗算で計算できるし、エスタブリッシュメントから貧民まで、だれでも普通に朝日新聞を読む事ができるのは、小中学生の学力の高さの現れである。

このような事は、アメリカやヨーロッパに行けば全く普通ではない。

欧米だと、簡単な暗算はもちろん、読み書きも怪しい人というのが大量にいる。

日本でも、そのような非常に学力が低い層というのはもちろんいるが、日本とは比べ物にならない割合でいるのである。

 

このように学力が低い層が大量にいる社会というのは、学力が低い層を効率よく使うテクノロジーが発達する。

それはITの活用であったり、雇用のシステムであったりさまざまだが、ともかく「無能」な人間にも「富」を生産させた方が儲かるならば、「無能」な人間も工夫して使う、という方向になっていくのは当然の事だ。

アメリカとかヨーロッパの社会が何だかんだで日本よりも効率的なのは、平均的な労働者の学力が低いということが大きい。

合理的で効率的なシステムを作り上げないと、学力のない人たちを動員して儲けることができないのだ。

国民の学力が低ければ、学力が低い人間でも参加できるようなシステムを創造するインセンティブが生まれる。

そして、それが社会の活気というものにつながっていく。

 

最近の日本で起きていることはそれとは逆である。

日本では、みんなそこそこ学力があるものだから、「無能」な人間を使えるような効率的なシステムが発達しない。

どうしても、システムの非効率を個人のスキルと気合でカバーする、という方向になってしまう。

そして、それで何とかなってしまうものだから、システムはいつまでたっても効率的にならない。

日本の組織がやっていることを見ると、それは無駄のオンパレードである。

みんなそこそこ優秀だと、システムが少しくらい非効率でも、がんばれば何でもできるだろう、という気分になってしまうのだ。

アメリカとかヨーロッパとかでは、そうはいかない。

無理なものは無理、と、最初からはっきりと決まっている。

 

日本の今の社会が直面している困難を見ると、それらは明らかに日本人の学力が低いからではない。

日本人の学力が低いから日本が低迷しているわけではないのである。

それどころか、最近の日本社会を見ていると、日本人の学力は問題解決の妨げになっているのではないか、と疑わざるを得ない。

学力というのはどうしても、ある種の思考停止を招く。

学力があると知恵が出てこない、逆に学力がないから知恵が出てくる、という側面は無視できないと思う。

僕は、日本の教育の今の問題は、教育がない事ではなくてありすぎる事、つまり過剰教育だと思っている。

学力というのは無くなったらば無くなったで、それなりにいい事があるのだから、これからは教育の思い切ったリストラを実行するべきだ、と僕は考える。

バックナンバー

globalizer-ja.hatenablog.com

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。

教育行政の無責任体質と「教員不足」

どうも、全国の小中学校で教師の数が足りなくなっているらしい。

どれくらい足りないかというと、700人ほど足りなくなっているらしい。

この「足りない」ということの定義がどのようなものかは知らないが、おそらく700人分の授業が「自習」とか、そういう感じになっているのだろう。

そうだとしたら、仮に平均的なクラスの人数を30人とすると20,000人ほどの生徒が授業を受けていない状態だということで、まあ、大きなニュースといえば大きなニュースかもしれない。

www.nhk.or.jp

では、なぜ教師の人数が足りないか、というと、これは少子化を見越して教師を臨時採用の教師に置き換えているからである。

もし、正規採用で教師を採用した場合、今後少子化が進んで教師が余ったとしてもそれらの教師はクビにできない。

なので今、教育行政は、教師を少子化が進むにつれて自由にクビにできる臨時採用の教師に置き換えている。

その臨時採用の教師が採用できなくなっている、というのだ。

臨時採用でもいいから教師をやりたい人の数は限られているのに、必要とする臨時採用の教師の数は増える一方なのだから、教師の数が足りなくなるのは当たり前といえば当たり前の話ではある。

 

臨時採用の教師の採用が難しくなっている理由は、ネットなどを通じて、そんなものになっても正規職員に都合よく使い捨てにされるだけ、ということが周知されてきたから、というのもあるだろう。

どうも、臨時採用の教師とコマ数あたりで働く非常勤教師というのは違うらしいのだが、ともかく、将来の需要に応じて自由にクビにできるから非正規雇用で教師を採用しているのである。

まともな人間ならば、そんなものに応募することが正しいことなのか、考えてしまう方が普通なわけで、だから教師の数が足りなくなるのは当然の成り行きだし、人々が合理的な判断ができるようになっている、という意味では歓迎すべき事だといえる。

 

興味深いのは、先ほどのNHKの番組では教育現場が大変!と言っているだけで、非正規雇用の教師がそのことによってどのような影響を受けるのか、ということが全く取り上げられていない。

「仕事が増えて大変!でもお賃金は減らしたくない!」という教育現場のエゴと、「わが子の教育が!」という親のエゴしかないのである。

取材しているのは現場の教師と文科省の課長だけで、非正規雇用の教師には一切取材がされていないのは、このような無責任体質が反映しているようにも思える。

もちろん、非正規雇用の教師になりたがる人というのはあまりいないんだな、ということを周知する意味はあるが(というよりは、非正規雇用でも教師になりたがる人は増えてないのに必要とする非正規の教師の数は増加する一方、というのが実情だろうが)、NHKとして少しバランスが欠けているのではないか?

 

どうすれば教員不足は解消されるか?

最高なのは、すべての教師を非正規雇用にすることだろう。

教師というのは、べつに非正規雇用でもできる。

だから臨時採用とか、コマ数あたり3,000円で教える非常勤の教師というものがあるし、校長だってド素人の民間人がやっている。

教員免許も必要ない。

年限をなくした「助教諭免許状」を発行すれば、それで済む。

教師を非正規雇用にするなんて不可能なように思えるが、国立大学だって法人化されたのだから案外簡単にできるような気がする。

それが無理というなら、教育内容のリストラと、教師のお賃金を切り下げて生徒あたりの教師数を増やすしかないが、それもイヤだというならば、別に放置しておけばいいのではないだろうか。

学校なんて託児所の一種に過ぎないのだから、授業が少しくらい「自習」になった所で問題はなにもない。

それで影響を受ける層は読み書きと小学生レベルの算数が分かっていればいい層で、もっと高度な学問が必要な層は自分で学問ができるから大丈夫である。

だから、今の状況は放置プレイで構わない。 

どうせ、教育行政にある既得権益を手放したくないからギャーギャー騒いでいるだけだ。

続き

globalizer-ja.hatenablog.com

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。  

 

小林麻央と女子アナの不思議

小林麻央が亡くなったことを受け、日本テレビで追悼番組が放送された。

過去のNEWS ZEROの映像が紹介され、NEWS ZERO(「ファミリー」なのだそうである)の関係者などが思い出話をしていた。

 

その中で、小林麻央の姉の小林麻耶のコメントが少しだけ映った。

ほんの数十秒なのだが、それを見て、やっぱキー局の女子アナはぜんぜん違うわ、と思った。

そして、小林麻央にキー局の女子アナは絶対無理だと思った。

そこには何か、絶対的な違いがあるように思われた。

どう見ても、小林麻耶はキー局の女子アナで、小林麻央セントフォースなのである。

 

二人とも出発点は似たようなものだったはずだ。

どちらも「恋のから騒ぎ」に出演したのがきっかけで、テレビ業界に入ったのである。

もちろん、小林麻耶はそれから長いことキー局の看板女子アナとして活動するわけだが、それにしてもどうしてこうも違うのだろうか。

 

思うに、普段、視聴者が見慣れているキー局の女子アナというのは、一般人臭が消えている。

キー局の女子アナには、なんというか、女子アナ以外の何者でもない、という、ある種の絶対性がある。

女子アナらしさ、というのが何なのかを言葉にするのは難しいが、とにかく女子アナというのは、キャリア女性でも水商売の女でもない何かで、それらの人たちとは雰囲気からして違っていなければいけない。

女子アナというのは、雰囲気からして女子アナでなければならず、少しでも一般人臭が残っていてはいけないのである。

 

キー局の女子アナだった小林麻耶は、この一般人臭を完全に消すことが出来ている。

でも、小林麻央はいつまでたっても一般人臭(もっといえば「恋のから騒ぎ」臭)が抜けなかった。

小林麻央がどれくらい女子アナになりたかったのかは分からない。

キー局はもちろん、地方局まで軒並み落ちた、という噂もあれば、キー局から声がかかったけれども断った、という噂もある。

案外、女子アナになることに大して興味はなく、もともとタレント志向だったのかもしれない。

しかし、小林麻央に、素人が素人以外のことを(完全に無自覚的に)やっている、という気持ち悪さがあったというのは事実だと思う。

 

女子アナが女子アナでなくてはならないのは、女子アナには威厳という要素が必要だからだろう。

女子アナというのは時として重大なニュースを伝えるという役回りなので、ある程度の威厳というものがなければ画面になじまない。

やはり、女子アナというのはキリッとした(?)部分がないとだめで、ただふわふわしているだけではいけないのである。

それに、テレビに出てくるのは各界の大物が多いわけだから、威厳のない人間には司会などが務まらないだろう。

女子アナの威厳というものは普段、親しみやすさに隠れているが、ナメられたら終わり(特に視聴者には)、というのは女子アナも同じなのではないだろうか。

 

これは多分に、個人のキャラクターの問題なのかもしれない。

多分、女子アナというのはナメられたら終わり、という事を本能的なレベルで理解していて、しかもどんな局面でも相手にナメられないという自信がある女でないと、キー局の女子アナは務まらないのだ。

 

そのような事を考えさせられた追悼番組だった。

電子出版した本

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

Common Lispと関数型プログラミングの基礎

 

多分、世界で一番簡単なプログラミングの入門書です。プログラミングの入門書というのは文法が分かるだけで、プログラムをするというのはどういう事なのかさっぱりわからないものがほとんどですが、この本はHTMLファイルの生成、3Dアニメーション、楕円軌道の計算、 LISPコンパイラ(というよりLISPプログラムをPostScriptに変換するトランスレーター)、LZハフマン圧縮までやります。これを読めばゼロから初めて、実際に意味のあるプログラムをどうやって作っていけばいいかまで分かると思います。外部ライブラリーは使っていません。

世間は英語英語と煽りまくりですけれども、じゃあ具体的に英語をどうするのか?というと情報がぜんぜんないんですよね。なんだかやたら非効率だったり、全然意味のない精神論が多いです。この本には僕が英語を勉強した時の方法が全部書いてあります。この本の情報だけで、読む・書く・聞く・話すは一通り出来るようになると思います。