グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

hagex氏刺殺事件とネットの限界

以下のエントリーを読んで、ネットのもつ限界について考えさせられた。

 http://bunshun.jp/articles/-/7933

やまもと氏の出身大学である慶應義塾大学には人文学に関する分厚い伝統がある。イスラム学に関しても井筒俊彦という天才として知られたイスラム学者が有名だ。

だから、やまもと氏には低能先生がどのような人物であるのかすぐに分かった。そして、やまもと氏は迫り来る嵐に気づくこともなく文学部イスラム学科などに進学してしまった人たちが卒業後に舐めた辛酸についてもよく知っているに違いない。

やまもと氏には、「頭がよく才能もある」のにイスラム学なんかを専攻したばかりに報われない大学時代の知り合いと「低能先生」が重なって見えたのだろう。先ほどのエントリーからは、やまもと氏の無念さが伝わってくる。

hagex氏と低能先生はお互いについて何も知らなかった。何も知らなかったからこのような救いようのない結末になったのだ。ネットには何でもある、と言うようなことがよく言われるが、とんでもない。現に、hagex氏が刺殺されるまで、僕たちは低能先生の出身学科すら知らなかった。

もし、hagex氏と低能先生に面識があれば、それなりに有益な情報交換ができたはずだ。それどころか、場合によっては仕事などでお互いに協力することだってできたかもしれない。

それなのに今回、インターネットは何の役にも立たないどころか最悪の結果をもたらしただけだった。hagex氏の刺殺事件は、ネットが本質的に持つ限界というものをよく表していると思う。

hagex氏に見られる持てるものの傲慢

hagex氏が亡くなった後、ネットでは故人を偲ぶエントリーが多くかかれた。故人は本当に素晴らしい人であった!と賞賛するものから、まあいい奴だった、というものまでそれぞれ温度差はあるようだったが、とりあえずhagex氏を悪くいうようなものは見当たらなかった。

僕は当然hagex氏には実生活でもネット上でも一切面識がない。しかし、hagex氏が持てるものの側からブログをやっていたのはたしかだろう。hagex氏を偲ぶエントリーをよみながら、僕はhagex氏が殺されたのはhagex氏が持てる者だったからなのだろうと思った。持てるものが絶対安全なはずの高みから持たざる者を攻撃していたからこういうことが起きたのだ。

刺殺直前にhagex氏が開催していたセミナーをレポートしたエントリーには、撮影禁止として画像の代わりに自筆の似顔絵が紹介されていた。誇らしげな表情をしたhagex氏の肩には、これ見よがしに子供らしき人物の絵が描き込まれていた。こんな見せびらかしをしているから刺し殺されたんだろうな、というのが僕の正直な感想だった。

持たざる者になりたくてなった者など誰もいない。低能先生だって、好き好んで低能先生をやっていたのではないはずだ。

低能先生には世の中で生きていく実力がなかったというのはその通りだろう。しかしながら、実力がもし無いならばそれはしかたがないことで、説教をしたら実力が向上するわけでもない。ましてや、持たざる者を煽るだけ煽ったところで建設的な結果は何一つ出てこない。

持てるものになるか持たざるものになるかなんて、結局は偶然の結果だと思う。この点について持てるものは謙虚であるべきだ。僕は、ただ面白いからという理由で持たざる者を馬鹿にすることには反対だ。

hagex氏刺殺事件と「追い詰める快楽」

https://toyokeizai.net/articles/-/227515

上記エントリーを読んで、「追い詰める快楽」とはよく言ったものだと思った。あらゆる正義は多かれ少なかれ快楽をともなう。反撃できない相手を集団で攻撃するのは楽しい。相手が非の打ち所のない絶対悪、たとえば「低能先生」のような人物であればなおさらだ。しかし、「追い詰める快楽」は危険である。絶対悪は精神的に不安定だから絶対悪であるわけで、何が起こるか分からない。もちろん、何が起こるか分からない、といってもたいていの場合は何も起こらない。だが、何も起こらない、と、大抵何もおこらない、では意味に大きなちがいがある。hagex氏は「追い詰める快楽」を追究する最先端にいた。「低能先生です、と一行書くだけでアカウントが凍結されるようになった」確かにおもしろい。今になってみると、ちょっと面白すぎたかもしれない。

得るものなく亡くなったhagex氏

「今日も得るものなしZ」というブログがある。亡くなったhagex氏がやっていたブログとおなじようにネットウォッチを中心としたブログだ。

僕がhagex氏が刺殺されたという話を聞いてまず真っ先に思い出したのはこの「今日も得るものなしZ」だった。というのは、あえて言い切ってしまうけれどもhagex氏のブログを読んだところではっきり言って何の得るところもない。はあちゅうの何がダメなのかを知ったとしても何の得るものがないし、匿名掲示板からヤバイ奴の話を集めてきたところでそんなものを読んでも何の得るものもない。

今回の刺殺事件のきっかけになった「低能先生」だってそうだ。低能先生を通報したところで何の得るものがあったのか?アカウントが凍結されても、低能先生は新しいアカウントをつくればいいだけのことだから(獄中にある今となってはアカウントをつくるのはもはや無理だけれども)、低能先生を通報しても得るものは何もない。

hagex氏に至っては、得るものがないどころか命まで失っている。もちろん、hagex氏は百万PVのブログを運用する事で得られた広告収入だけでなく(もっとも、hagex氏のブログの読者はネット慣れした嫌儲が多いのか、PVの割に収入はたいしたことがなかったらしいが)、炎上を通り越して殺された日本のネット史上初のネットウォッチャーという栄誉を得たが、この事件だって知ったところで何の得るものがない話と言えばそうである。この刺殺事件を詳しく調べて具体的に何かえるものがあるかというと、何もないと思う。

もちろん、何が得るものでなにが得るものなしになるのか、という問題は難しい。たとえば、ポテトチップを食べたところで得るものは何もないし、アイスを食べてたところで得るものは何もないが、得るものがなくてもみんなポテトチップスやアイスを食べているし、ポテトチップス工場やアイスクリーム工場に勤務することは得るものがないこととはみなされない。

それとおなじように、hagex氏が扱っていた情報というのはポテトチップスやアイスクリームと同じような嗜好品だったのだろう。そういう意味で、hagex氏の亡くなり方というのは、アイスクリーム工場の爆発に巻き込まれて亡くなったアイスクリーム工場の従業員のようなものかもしれないし(アイスクリーム工場が爆発するものなのかは知らないけれども)、もっといえばhagex氏の死自体も嗜好品として消費される運命にあるのだろうなあ、と思った。

紀州のドンファン

紀州ドンファンこと、野﨑幸助氏が変死したということで、野﨑氏の二巻本の自伝を買って読んでみた。正直、野﨑氏の女性遍歴に関しては大して面白いとは思わなかったが、成功している中小企業の社長というのはどのようなものかを知る上で非常に参考になった。

意外だったのは、野﨑氏の商売上の成功はかなりの部分人脈によるものだということだ。それはうまい儲け話だったり、商売が行き詰まったときに役に立つアドバイスだったりするのだが、とにかく野﨑氏のまわりには儲け話を待って来る人や、商売上の知恵を教えてくれる人がいつもいて、野﨑氏の成功はそれらの人の話を聞くことでなりたっているのである。もちろん野﨑氏のほうも、商売上役に立つアイディアや情報を商売仲間に惜しげなく分け与えていたのだろう。

金儲けなんて女遊びに必要な収入を確保できればそれでいい、というのが野﨑氏のスタンスで、ビジネス上の判断も一円でも多く稼ぐというよりは出会いを大切にするという観点を重視していたようだ。そしてそうしたビジネス上の判断がまた野﨑氏の人脈を広める結果になるのである。

話が面白い「助平」老人ということで、野﨑氏は従業員にも人気があったようだ。

さて、野﨑氏の変死についてだが、僕は野﨑氏が「ハッスル」するために自ら違法薬物を摂取した可能性は少なからずあると思っている。もしそうならば、野﨑氏は違法薬物を違法に所持、使用したあげくまぎらわしい死に方をした犯罪者だったわけで全く迷惑な話だが、もし「助平」に関する失敗が原因で亡くなったとすると、それはいかにもドンファンらしい亡くなり方といえなくもない。

一人分の差

ワールドカップで日本代表がコロンビアに勝利した。わずか開始3分でコロンビア側にレッドカードがでて、それ以降はコロンビア側が一人少ない状況で試合がおこなわれるという、コロンビアがコロンビアに負けたとでもいうべき試合だった。この試合のニュースを聞いて僕が思ったのは、日本サッカーと「世界」との差というのは一人分位あるんだな、ということだ。初めのペナルティーキックを考えに入れないとするとこの試合は1対1の同点である。つまり、今の日本代表というのはコロンビア相手だと一人分のハンデをもらってやっと互角になるのである。もっとも、ハンドでブロックされたシュートが入っていれば日本が一点先制していたわけで、日本がそのまま勝っていた可能性はゼロではないのだが、「歴史的勝利」などと浮かれてもいいようなものでは決してないと思う。

もし中国が世界を支配できなかったら、中国人はどのような代償を払うことになるのだろうか?

最近の中国政府の外交政策を見ると、あたかも中国が世界一の大国になるかのような攻撃的な政策が多い。僕は一部のリベラル派が信じるように中国が世界を支配するなんて予想は全く信じていないが、しかし信じる代わりに思うのは、もし中国が世界を支配したら、中国人にどのようないいことがあるのだろうか、ということだ。むかし、日本は世界一の国になるだろうという話があった。しかし、いまの日本で日本が世界を支配する国を目指すべき、なんてことを考える日本人はいないだろう。そんなことをしてもろくなことにならないことが分かっているからである。それと同じように、中国が世界一を目指しても長期的にはろくなことにならないと思う。こういうのは損得ではなく夢を見ること自体、夢を見る過程に価値があるのかもしれないし、もし中国が世界を支配したら(今の中国を見る限りまったくありそうにない話だが)世界を支配したという栄誉はのこるのだろうけれども、しかしながらもし中国が世界を支配できなかった場合、中国人はどのような代償を払うのだろうか?