グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

タクシー通学とサイバー田舎

先日テレビを見ていたら、過疎のために集約された小学校が取り上げられていた。しかも、はじめからみていないのでよく分からないが、その小学校は津波対策のためか高台にあり、生徒が暮らす集落とは離れているということだった。そのために生徒は徒歩による通学ができず、全校生徒が乗り合いバスやタクシーに乗って通学してくる。タクシー(プリウス)のドアが開いて小学生が降りてくるのを見て、これはすごい未来的だと思った。生徒は本当にあちこちに分散して暮らしているらしく、番組に取り上げられた生徒の家は、一番親しい友人の家まで車で15分ほど離れているという話だった。それで、放課後は友達と遊ぶこともなく、普段はiPadを使ってLINEをしたり、YouTuberの動画などを見て暮らしているらしい。これも未来的だと思った。テクノロジーの存在感は、都会よりも田舎の方がかえって大きいのかもしれない。

ブロックチェーンと共産主義

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180720-00010007-fnnprimev-sci

ここ最近一部で言われているブロックチェーンに基づく社会と共産主義というのは非常によく似ている。何が似ているかというと、国家というものはいずれ無くなる、という結論が最初にあるところが似ている。国なんてものがあるから資本家が悪事の限りを尽くすのだ、と共産主義者は考えた。共産主義なんていまからみたら馬鹿げた考えに思えるかもしれないが、共産主義が考案された19世紀は、ひどい貧困に苦しむ人がそこら中に溢れる一方で、戦争によって資本家は大もうけしていたわけで(ある程度は今もそうだが)、国家なんて不合理なものは人類の進歩とともに消え去るに違いない、国家は悪いことをしない共産党によって置き換えられるべきである、と考える人がでてきたのもまあ、必然といえば必然と言える。一方、ブロックチェーンに基づく社会というのはどのようなものかというと、これは共産党の代わりに世界に一つだけあるマーケットがすべてを決定するという社会である。つまり、国家みたいに悪いことをしない(ことになっている)マーケットによる独裁である。共産主義とおなじようにある種の独裁によって理想社会を建築しよう、というのがブロックチェーンビジネス界隈の人々が話していることだ。マーケットは常に正しい!全員がマーケットに従うべきだ、というわけで、共産党は常に正しい!国民全体が共産党に従うべき!と考えていた共産主義者マインドセットは変わらない。そして、このようなマインドセットの背景にはいつも、人間は科学技術によって進歩する、という信仰がある。共産主義者にとって資本主義が時代遅れであったように、ブロックチェーン界隈の人たちにとって中央集権を基にした社会は時代遅れなのだ。しかしながら残念なことに、科学技術は進歩するが肝心の人類の知性の方はというと一向に進歩していない。インターネットがいい例だ。あれこそ人類の知性の象徴だ。インターネットによって人類の見識は広がらず、相も変わらずドグマに基づいた議論ばかりが行われている。昔はやった表現を使えば、人類の知性というのは総じて「ひどいインターネット」なのである。インターネットでなんら進歩がなかった人類の知性がブロックチェーンで進歩するわけないだろう。そもそも、分散社会を機能させるには「中央」が必要なのは、資本主義の歴史を見たらいやというほど分かることではないのか?中央集権社会もまともに運用できないのに、分散社会が運用できるわけもない。

普通の人にとっては、英語というのは理論物理学みたいなものだとおもう

日本の将来にとって英語が重要ということはもう何十年も前から言われているが、僕はどうして英語が重要なのか全然わからない。僕が思うに、普通の人にとって英語というのは理論物理学のようなものだと思う。工学部の学生が電磁気学を正しく理解していることは重要だが、別に電磁気学を理解していなくてもテレビ・HDDレコーダー・パソコン・スマートフォンなどの電子機器は使える。それと同じで、普通の日本人が必要な情報は日本語としてすでにある。たとえば電磁気学の勉強にしたって日本語の教科書なり翻訳書があるから、べつに英語の知識がなくても勉強できる。もちろん、理論物理でも修士以上のレベルになれば英語の教科書なり論文なりをよむ必要が出てくるし、人文関係でも、真面目に勉強するならば英語の知識は絶対に必要になる。英語もわからないで西洋史を理解するのは難しい。英語が分からなければ(べつに英語でなくても西洋語なら何でもよいが)西洋とは何かが感覚的に分からない。しかし、これら英語でないとアクセスできない情報はすべて、普通の日本人がまったく興味を持たないようなものでもある。ふつうの日本人にとって電磁気学が全く関係ないのと同様、ふつうの日本人にとって英語は全く関係ない。なぜなら、英語でなければアクセスできないレベルの情報を全く必要としないからである。英語の習得は楽ではない。英単語を何千もおぼえ、何千ページの英文を読み、何千時間もの間英語を聞いて初めて英語は習得できる。ド素人のALT教師の授業を何時間か聞いたらできるようになるというものでは断じてない。もし語学が専門でないならば、ある程度の期間あらゆる遊びを断念するくらいでないと英語の習得は無理だろう。まわりが「青春」したり「人生の階段」を一歩一歩上る中、それらに背を向けて語学に打ち込む覚悟がある日本人はどれほどいるか?ほとんどいないのではないか。必要になったら必要なだけ英語を勉強すればいい、となるのは当たり前で、つまり今まで通りということだ。英語を使ってやりたい有意義なことが具体的に何があるか?英語が必要なレベルにない人には英語は必要ない。理論物理学が必要ないようにである。

日本人はどこまで英語が得意になるべきか?

英語というのは大変だ。何が大変かというと、使うのが大変なのである。英語を使うのが大変、というとまるで自分の語学力が乏しいように聞こえるから、英語関係の人はこういう話を絶対しないが、英語を使うのは大変である。たとえば英語の本を読むにしても、僕は文字通り一行一行根気強くよんでいくしかない。日本語の本の内容を一冊3時間で一通り理解する、なんて読み方はとうていできない。英語を辞書なしで読めるようになっても、英語を使うということは日本語を使うのと比べてものすごい効率が悪い。読むことに関していえば、下手すると10倍以上悪いかもしれない。もちろん、効率が10倍以上悪いとしても得るものがあるから英語を読むわけであるが(まあ、最近は色々忙しくて全然英語を読んでいないけれども)とにかく英語というのは相当に勉強したあとでもやはり大変である。何故英語が大変か?もちろん英語を勉強する時間が十分ではない、ということもあるだろうが、根本的には日本語の本の内容を一冊3時間で読めるくらいに日本語が得意だから、というのもあるように思う。英語の本を3時間で読めるレベルの英語力がある人の日本語力というのはどのようなものなのだろう?もう、日本語なんて半分忘れているような状態にならないとそこまでのレベルに行かないのではないだろうか。英語教育の必要性が叫ばれるようになって数十年になるが、英語教育をどの程度すればよいか、ということに関しての議論はまったくされない。日本の英語教育の絶望的な非効率性とあいまって、やればやるだけよい、としかいわれない。現状を見る限り、次の世代の日本人が英語ができるようになるという目標は、日本語能力を破壊することによってでしか達成されないかもしれないと思わないでもない。もし日本語より英語を使う方が楽ならば、日本人の英語力はアメリカ人と同じになるだろう。そして、日本人の日本語力は外国人並みになるだろう。そんなことが実際起こるとは僕は思わないが、このようにもっとも極端なケースを考えることは今後の英語学習について考える上で重要なのではないだろうか。

元奨[2]

橋本長道氏の奨励会の本を読んで印象に残るのは、間接的に書いてあることである。直接的に書いてあることももちろん印象的なのだが、間接的に書いてあるからこそ強い印象として残るものがある。たとえば、当たり前の話だが、橋本氏は自己のことを才能があるとも、才能が無いとも書いていない。それにもかかわらず、橋本氏が自分の才能についてどのような認識を持っているかは行間からはっきりと伝わってくるのだ。中学時代に全国大会で優勝し、高校生になってから奨励会員に二勝一敗して奨励会入りした橋本氏は初段に上がる手前までいった。勝ちまくっていた時期もあるだろうし、鮮やかな一手で相手にとどめを刺したり、勝負をひっくり返したことも沢山あったはずだ。橋本氏は、自分や自分と同じように奨励会を去った元奨と名人になるような「トップ棋士」との間に歴然としたレベルの差があることを認めている。しかし、本を読んでいて、橋本氏のような元奨は案外、棋士生活をずっとC級2組で過ごすことになるようなプロとはそれほどの差を感じていないのかもしれない、とも思った。将棋の天才というと世間では、羽生永世名人や藤井七段のような著名人ばかりが連想される。しかし、橋本氏のような元奨もまた将棋の天才であり、普通のアマチュアにはできない芸当ができる人たちであることが、橋本氏の本を読んでいてよく分かった。

元奨

橋本長道氏による奨励会の本はとてもいい本だった。まず文章がよい。所々に鮮やかな「一手」がある。たしかにこれはラノベ作家にしかかけない本である。さらに本書が特徴的なのは、本全体の雰囲気である。挫折挫折と橋本氏はいうけれども重苦しさはあまりない。挫折の話なのであるが読んでいて風通しの良さ、ある種のすがすがしさを感じた。それは短期間で一気に書いた、という本書の成立事情にもよるだろうが、橋本氏が高校生になってから奨励会入りし、奨励会を19歳で去ったことも大きいと思う。奨励会に関する世間のイメージのほとんどは「地獄の三段リーグ」で形作られているのではないだろうか。才能あふれる神童が破竹の勢いで四段になっていくのを横目に、自分の将棋の勉強は停滞したまま年だけ食ってどうしよう、みたいなイメージだ。19歳で奨励会を去った橋本氏はこのような本当の泥沼を経験していない。そのことで、本書は他書にはみられない風通しの良さをもって奨励会を取り上げることに成功している。泥沼を経験した者しか書けないことがあるのはもちろんだが、泥沼を避けて通った者にしか書けないこともまたあるのだ。さらに、本書は今現在で三十代半ばの元奨励会員によって書かれたことにも意味がある。時代とともに奨励会の気風も変わってきている。今の奨励会員には、明確にプロを目指していない者が少なからずいるらしい。それらの会員は部活感覚で将棋を勉強しているに違いない。運動部に所属する部員が必ずしもスポーツ選手を目指しているわけではないのと同様である。当然、奨励会を去るときは部活を引退するようにして退会するだろう。奨励会を将棋部のすごいバージョンとして認識している奨励会員は相当に多そうな気がする。これまで多くの才能ある奨励会員を破滅に追いやってきた麻雀やギャンブルに関する記述もある。奨励会員はこれらのゲームを非常に得意とする人達であり、したがってこれらにのめり込みやすい、というのは納得できる説明である。橋本氏によると、奨励会の生活は誘惑が多いので、高校に行った方がかえって将棋の勉強に打ち込みやすいくらいだという。橋本氏の師匠である井上慶太九段に関する話もある。奨励会員ならば多かれ少なかれ、いろいろなものを背負い込んで生きていくことになるのはいつの時代も変わりないのだろう。本書が井上九段に向けて書かれたものでもあることはまず、間違いない。繰り返すが、この本はとてもいい本である。本全体の雰囲気に不思議な明るさ、すがすがしさ、風通しの良さがある。

苦労の押しつけが百害あって一利もないわけ

苦労の押しつけは百害あって一利もない。なぜなら、押しつけられた苦労を耐え忍ぶということは思考を停止させることに他ならないからだ。学校教育の掃除などは押しつけられた苦労の典型例だろう。学校の掃除は、そもそもなんで生徒が学校の掃除をしなければならないのか、学校の掃除をすることによって生徒の精神にどのようないい影響があり、どのような悪影響があるのか、生徒が学校の掃除をすることはよいことなのか、それともわるいことなのか、を問うことは許されない。生徒はただ、いわれたように掃除しなければならないのである。他の生徒に百円渡して掃除の代行を依頼するとか、もっと効率的な掃除の方法を提案するとか、教師に掃除の回数について交渉するということもできない。こんなことをやらせていたら、生徒の精神に悪影響があるに決まっている。学校の掃除をやめたら、いじめの数は減少するのではないだろうか。学校の掃除に限らず、押しつけられた苦労というのはだいたいそんな感じだ。押しつけられた苦労をただただ耐え忍ばなければならない。苦労を押しつけられるということは思考が停止するということだから、苦労をすればするほど人は馬鹿になる。実際、苦労を重ねた人間というのはどこか頭の働きがわるいというか、アンバランスであることがおおい。というか、僕のいままでの経験ではほとんど100パーセントそうである。これは、聡明な人間がどちらかというと苦労知らずであることの説明にもなっている。押しつけられた苦労がないなら、その分だけ頭の働きがよくなるのは当然のことだ。苦労の押しつけは、押し付ける側も押しつけられる側も疲れるばかりで誰も得をしない。これからの日本では、この苦労の押しつけを撲滅していくことが重要であることは間違いない。