グローバル引きこもり的ブログ

「Common Lispと関数型プログラミングの基礎」というプログラミングの本を書いてます。他に「引きこもりが教える! 自由に生きるための英語学習法」という英語学習の本も書いています。メール → acc4297gアットマークgmail.com

教養とバイアス

教養がある人というと、なんとなく朝日・岩波文化人が書いた本を読んでいる人という印象がある。それは実際にそうなのだろうけれども、もしそうだとすれば教養はある種のバイアスとともにあることになる。これもまたそうなのだと思う。これまで教養とされてきたものは、いかにも価値がありそうに見えるもので実際にそれなりの価値があるのだろうが、しかしそれは人間の本質を理解する上でどれほど役に立つのだろうか。教養を蓄積するにしたがって人文的な思い込みの方も強化されていくとなると、教養なんて無いほうが真理に近い、ということにもなりかねない。もしかしたら、いまの時代、本当に求められているのは、一度教養から離れてみる、ということなのではないだろうか。教養がなくても別に死にはしない。一度教養から離れてみることで初めて、新しい時代の教養のあり方がわかってくるはずだ。

メディアの変化と教養の変化

教養について最近言われることについてつくづく思うのは、教養を流通させていたメディアが変わると教養も変わるんだな、ということだ。たとえば、僕の世代までは知識というのは基本的には本を読むことで入手するのが普通だった。本を読むとなると、どのような本を読むかが問題になるが、読んでおくべき定番の本とか定番の分野についてはなんとなく共通の理解があるからそういうような本を読む。みんなが同じような本を読むからお互いに話が通じる、というのが教養の本質だったと思う。音楽に関してもそうだ。昔はレコードとかCDなどでを買ってきて音楽を聴いていたが、とりあえず何を聞くかというとみんなが聞いている定番の音楽を聞くことになる。みんな同じようなものを聞いていれば、共通した音楽の知識をもとにして音楽について語ることができるようになる。インターネットによって、教養のあり方は少なからず変化した。ゲームの世界を考えるとこれはよく分かる。スマートフォンの世界は、だれでもファミコンDQ3を遊ぶような世界とはまったく異なる。ある意味、既存メディアは定番を作ることを目標にしているといってよいが、インターネットにはよくも悪くも定番を作る力がない。興味深いものはあってもその場その場で終わってしまう感じがする。だからインターネットがどうなろうが既存メディアは残るのだが、インターネットがあるだけ既存メディアは本気でコンテンツを作らないといけないだろう。そして既存メディアがどのようにコンテンツを作ればよいか考えるとき、普遍的なコンテンツというものをどう考えるかが重要になってくるように思う。

20兆円の問題を解決するために、自民党はいくら払うつもりなの?

氷河期100万人就職支援、政府 研修業者に成功報酬

https://r.nikkei.com/article/DGXMZO48547530U9A810C1MM8000

このままの状況が続くと、氷河期世代生活保護に20兆円ものコストがかかるという試算があるらしい。はたして自民党はこの問題にいったいいくら払う用意があるだろうか?少し考えると、20兆の問題を解決するなら(解決できるなら、だが)10兆かけて10兆円のコスト削減、みたいな感じになれば大成功なんじゃないかと思うが、自民党厚生労働省も本気で氷河期世代の問題に取り組むつもりは全くないように見える。この問題に関する自民党厚生労働省の反応はしょぼいとしか言いようがないもので、10兆どころかオリンピック程度のスケールもない。それは当たり前の話で、そもそも行政自体が完全に非正規労働に依存しきっているのだから非正規の問題なんて解決するはずもない。もちろん、60万で30万人がブラックでない会社に正規雇用されれば結構なことだ。しかし、現実的には、氷河期世代の問題は貧困問題として解決するしかないだろう。自民党厚生労働省はそのような解決策は絶対に避けたいところだろうが、氷河期の問題がそのまま貧困の問題になるのはもはや時間の問題である。

「表現の不自由展」は、あれで良かった

https://mobile.twitter.com/y_sadamoto/status/1159702101464776705

トリエンナーレの騒動から、過去の横領疑惑まで飛び出した津田さんだけれども、僕はあれで良かったのではないかと思う。自身もバンドでキーボードを演奏する津田さんは、そのロック音楽家的なセンスによって、自分が面白いと思うものを選んだのだろう。たとえば、あの有名なセックスワーカー像、みんな写真などでみたことがあるだけで実物をみた人はほとんどいないのではないだろうか。それでは実物はどんなのだろう、というので美術館に展示してしまう、その事自体が面白い。セックスワーカー像はもちろん反日運動のシンボルであるわけだけれども、これをアート作品として(たとえば、キッタネー少女像として)見てしまうことそのものがアートである。俳句の展示も面白い。「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」この俳句は、「さいたま市大宮区の月報」に掲載を拒否されたのだという。この月報はどんな下らない俳句でも送付されたものは必ず掲載することになっているのか気になるところだが、それにしても面白すぎる。こんなゴミのような俳句でも、いやゴミのような俳句だからこそ「言論の不自由」があれば素晴らしいアート作品になるわけで、そこが味わい深い。もちろん、中には作品と作品にまつわる経緯ともにつまらないものもあるが、面白いものなんてそうそうない。いくつか強烈に面白いものがあればそれで成功とすべきだろう。だから津田さんに反省を求めるなんて全く見当違いだし、津田さんも「このようになることは予想していましたし、むしろ狙い通りと言える位です。後悔は全くありません」みたいなことを言えばいいのにそこが残念だった。

変わる正解とドイツ

【特集】ドイツの若者は慰安婦問題を扱った映画「主戦場」をどう見たか

https://this.kiji.is/531391888323708001

まず、色々な歴史問題というのは基本的には人権感覚が今とはまったく異なった世界だったから起こったことだ。なにせ自国民さえボロクズであるかのように死んでいく世の中なのだから多民族の人権なんて考えるわけもない。その一方、ナショナリズムが力を持つ背景には、必ずマイノリティーの増加や貧富の格差の問題がある。人権に関する意識が書き変わった現在においてこの2つを考えると歴史問題に関する解釈もそのうち変わってくるのは明らかだ。上記のエントリーに記録されているようなドイツ人の学生は単に正解をいっているだけにすぎない。自分で考えているようでいて、単に学習したことを再現しているだけである。これは昔も今も変わらない。ナチの時代はナチを称賛するのが正解であり、今の時代はネオリベ的正義を支持するのが正解というだけの話だ。もし今とは違う正解が信じられるようになった場合、ドイツ人は全く逆のことをいい始めるだろう。

アートにおける冗談と「表現の不自由展」の成功

愛知トリエンナーレと「表現の不自由展」に行ってきた

https://note.mu/segawashin/n/nd000935e7c61

表現の不自由展・その後

https://censorship.social/artists/

空気#1

https://forzastyle.com/articles/-/49000

焼かれるべき絵

https://ksl-live.com/blog24863

落米の恐れあり

https://www.huffingtonpost.jp/2017/11/29/rakubei-no-osoreari_a_23292343/

アート、特に現代アートには冗談の要素が欠かせない。「表現の不自由展」においても、それらの作品の背景にある政治的な立場とは別についつい笑ってしまうような作品がいくつかあった。たとえば、米軍関連のものがよく落ちてくる沖縄の現状を表現した「落米の恐れあり」とか、日本国民であればテレビなどで、知らず知らずのうちに一度は目にしているだろう例の部屋を表現した「空気#1」などは理屈を抜きにして笑ってしまう。僕も多くの人と同様、表現の不自由展で何が展示されていたのかまったく知らなかったわけだけれども、これをみて主催者側の立場もわかった気がした。つまり、この展示は、その政治性以前にある種のギャグであったのだ。笑った後で考える、というのがこれらの作品の意義であったのだが、しかし世間には、これらがギャグであることが伝わらない。セックスワーカー像があったとか、天皇の肖像が燃やされたとか、そのような噂しか伝わらないからである。それにも関連するが、これらの作品からはどれも、やはり直接的にであれ間接的にであれ、公金をつかって公共の場所で展示するには適当でない感じがバリバリ伝わってくる。なんというか、美術館とかには場違いなのである。それは表現の自由とかの問題とは少し違うような気がするし、これらの作品は美術館などで展示を拒否されるのが作品として自然なあり方だとも思う。展示を拒否されて雑誌の取材を受けたり裁判をして敗訴したり部分勝訴したりする。人々から作品を遠ざけるために展示を拒否したはずなのに、騒ぎのなかでかえって作品の存在が広く世間に知れわたる。僕だって、不自由展が中止にならなければ不自由展で出品された作品を知ることはなかったわけで、そのような滑稽もあわせて初めて作品が完結する、と考えるのが現代アートなのではないか。その意味で不自由展は、中止に追い込まれることで大成功したと言ってもいいと思う。

クリエイティビティーにおいて、統一朝鮮は日本を追い越すか?

韓国の大統領が「日本を追い越す」とかいっているようだが、統一朝鮮は日本を追い越すと予測している人はなにも韓国の大統領だけではない。このようなことは、投資コミュニティーの中ではけっこう以前からいわれている。というのは、まず北朝鮮には膨大な量の天然資源がある。採掘に必要な資本もテクノロジー北朝鮮にはないのだから、これらの天然資源は当然手付かずのままである。そして、南北が統一されると人口は当然倍になる。国の大きさというのは何だかんだで人口で決まるという面があるから、統一すれば韓国の競争力はその分大きくなる。天然資源と人口を有効に使えば衰退し続ける日本を追い越せる。こういう理屈なのだが、果たしてうまく行くだろうか?まず、天然資源についてだが、天然資源が豊富ということは正直あまりいいことではないと思うのだ。ロシアも中国もオーストラリアも天然資源は豊富だが、天然資源が豊富だからこれらの国が成功しているとは誰も考えないだろう。もちろん、これらの国にもし天然資源がなければもっと成功したかは知らないが、天然資源がこれらの国の進歩の妨げになっていない、とはちょっといえないのではないだろうか。天然資源がある方がいいのか、それともない方がいいのかは状況によるだろう。しかし、資源が豊富で新しい時代の流れを作れるくらいのレベルの文明を持つ国と言えば現状、アメリカくらいのものではないか。人口にしても、中国には10億人も中国人がいるわけだが、中国が10億人分成功していると主張するのは難しい。10億人もいるのにこの程度?というのがこれまでのところで、しかもその人口動態は決して明るいものではない。だから、朝鮮の統一がなされた結果人口が倍になっても、それによって成功が約束されるとは限らない。国が追い越すだの追い越されるだのいう話は、結局は文明のレベルで決まる。そして文明のレベルとは、要するにクリエイティビティーがどれだけあるか、ということだ。さらにいえば、究極のところ、クリエイティビティーというのはある種の真面目さで決まると僕は考えている。この点についているならば、やはり韓国には真面目さが不足していると思う。それは韓国の気違いじみた歴史認識にもよく現れている。あれはまさにクリエイティビティーが不足している国の反応だ。別に日本が完璧な国であるとは思わない。しかし、今の韓国の有り様をみる限り、統一朝鮮の文明のレベルが日本を上回るとは、僕にはどうしても思えない。