基本的な英単語を知らずに英会話をしようとするのは、会話の相手に失礼である
日本の英語学習というのは基本的に、単語を知らないのではなく単語の使い方を知らないのが問題である、という考えに基づいていると思う。
つまり、必要な単語はすべて知っているのだから後は単語の使い方を覚えればいいだけ、という事である。
そして、使い方を覚えるのに一番いいのは英会話、という事になるのだ。
もちろん、ある種の英語教師や英語教育学者が英会話に執着するのは、その方が英語教育や英語教育学の存在意義が脅かされないから、というのもあるだろう。
生徒が勝手に英語を勉強できれば何のための英語教育かわからなくなる。
しかしながら、この「日本人は単語の意味は知っているけれども使い方をしらない」という考え方は英語教育の既得権益に関係のない人にも広く浸透しているように見える。
日本人のよくわからない英会話熱も、この考えを反映したものだろう。
でも、日本人は本当に必要な単語の意味を知っているのだろうか?
一体、政治家(politician)を英語でなんて言いますか?と言って答えられる日本人は一体どれくらいいるのだろうか。
議会(parliament)を英語でなんて言いますか?と言って答えらえる日本人は一体どれくらいいるのだろうか。
もし日本人で、「政治家」とか「議会」という単語の意味が分からなかったら大変である。
ところが、これが英語になると、polliticianもparliamentも知らなくて当たり前、という事になっているのだ。
なんか、おかしくないだろうか?
politicianとかpariliamentという単語を知らない事は、日本語で「政治家」とか「議会」などの単語を知らないくらい重大な問題である。
要するに、「英語ができない!」とか言っている日本人がやっている事は、「政治家」とか「議会」という単語を知らずに政治に関する議論をしようとするようなものなのだ。
英語を身に着けよう!ということで、必要な英単語を知らないのに英会話から始める人は多い。
しかし、会話には当然相手というものがある。
もし、会話の中にpoliticianとかparliamentという単語が出てくるたびに
'What is politician?'
とか
’What is parliament?'
みたいな事を言うとしたら、相手としてはどう思うだろうか?
相手からすると、そんな基本的な単語の意味は前もって勉強しておけ、と思うだろう。
英会話に必要な基本単語はあらかじめ知っていなければならないし、基本的な単語が分からないレベルならば英会話をするべきではない。
英単語を勉強するには、特に教師の指導を受ける必要があるわけでも、語学に特殊な才能がある必要があるわけでもない。
ただ、英単語を覚える意思さえあればよいのである。
それなのに基本的な英単語も知らずに英会話をしようとするのは、はっきり言って会話相手をナメた、極めて無礼な振る舞いであると言うしかない。
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意識高い系が、よく英語の学習に失敗する理由
意識高い系(検索エンジン会社の機械翻訳によると、英語ではConsciousness high systemというのだそうである)と英語学習との関連は強い。
まあ、ぜんぜん英語に興味がない意識高い系の人もたくさんいそうだが、意識高い系のカルチャーというのは英語学習と親和的である。
可能性とか、成長とか、向上心とか、人生を「エンジョイ」するとか、意識高い系がいうような要素はすべて英語学習に入ってくる。
意識高い系が英語に興味を持つのは当たり前だ。
それに、なによりも英語を使えると恰好がいいように見える。
まあ、英語が分からないと実態が分からないので、英語が分からない意識高い系には英語が使えるというだけでそれなりに恰好よく見えるだろう。
華やかさを重視する意識高い系にとって、格好よさは重要である。
なので、英語ができない人の側から英語ができる人の側に移りたい意識高い系は少なからずいる。
しかしながら、英語に興味があるから英語ができるようになるか、というとそうでもないのは意識高い系でも同じである。
どうも観察してみると、英語学習にコケている意識高い系は多い。
意識高い系の有名人も結構、「英語の勉強は割りにあわない」などといって、英語の勉強をやめている。
そのやめ方も、ある程度の成果が出た上でこれ以上やらなくてもいい、という判断をしたのではなく、手も足も出なかったのであきらめた、というような投げ出し方である。
もちろん、仕事で英語が必要になったとしたら、意識高い系であろうとなかろうとそれなりに英語ができるようになるだろうが、職場で英語力がなくても問題ない場合、かなりの人がコケていると思う。
というか、意識高い系の人がどういう風に英語の勉強をやっているかを見ると、まあコケて当たり前な感じがする。
意識高い系の行動原理として、「まずやってみる」というのがある。
いちいち考えていても仕方がない、まずとりあえず何かをやってみてそれから何をすればよいかを学んでいく、という方法論である。
これは、大抵の事においてうまくいく。
世の中では、少しくらいやり方がおかしくても熱意をもって取り組めば多かれ少なかれ成果が得られる場合がほとんどだ。
どんな事をやるにしても、とっかかりというものはある。
後先など考えるのは「やらない理由ができるだけ」なので、とりあえず始める、というのは、ある意味非常に合理的である。
だから、英語に関しても、英語を話せるようになりたいから、と言って、いきなり英会話などにチャレンジする意識高い系は多い。
しかし、「まずやってみる」という方法論は、英語の学習に関してはそれほどうまくいかない。
まずやってみる、ということになれば、当然その学習は会話が中心になる。
当然、単語なんて勉強せずに、いきなりぶっつけ本番である。
世の中は行動をした奴が偉いのだから、単語なんて会話をしながら覚えればよい、という事になる。
ところが、最小限の単語が分かってないと、そもそも会話のなりたちようがない。
もちろん、話の内容が本当に単純な事ならば成立するコミュニケーションもあるだろうが、少し込み入った話になると途端に話が通じなくなる。
これでは、こちらも会話の相手も話をしていて面白くないし、英語の上達のしようもない。
会話というのは、相手があって初めて成り立つ。
結局、面白くもないし、上達もしないし、その上いたたまれない、という事で、途中で投げ出す事になるのである。
外国語を勉強する上で最も重要なのは単語である。
はっきり言って、外国語は単語さえ分かれば何とかなる。
しかし、単語というのは意識的に覚えないと絶対に覚えられない。
僕はもう十年くらい英語をやっているけれども、英語を使っている中で知らない単語の意味が分かったことは一度もない。
もちろん、意味を知らないままに見たり聞いたりした単語はそれだけ覚えやすいけれども、最後には自分ではっきりとした意味を調べて、それを意識的に覚える必要がある。
外国人と話していれば勝手に語彙が増えていく、というようなものでは全くない。
単語を覚えるために、英会話は何の役にも立たない。
英会話の重要性を強調する意識高い系でも、英会話が単語を覚えるのに一番効率のよい方法だ、と主張する人は一人もいないだろう。
それなのに、必要な単語を覚える事をせずに英会話から英語を初めてしまう人が後を絶たない所に、意識高い系の欠陥というものが表れているような気がする。
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「甲子園」は部活である、という事を忘れるべきではない
第99回全国高校野球選手権は、花咲徳栄高校の優勝という結果になった。
僕は以前から、花咲徳栄がどのように勝つか、もし負けるとしたらどのように負けるかに注目していた。
花咲徳栄の雰囲気は他のチームと全然違って見えた。
他のチームは感情が直接的に出るのに、花咲徳栄は良い事があっても悪い事があっても動じない。
極限状態でも追い詰められているようには見えなかった。
いつも自然体で、目先の事にはあまり関心がないような雰囲気だった。
今回の決勝戦を見ていて僕が思ったのは、花咲徳栄の選手はまず野球を「プロの卵」としてやっているというより部活としてやっているのではないか、という事だった。
野球よりも楽しい事はいくらでもあるけど、野球は今しか出来ないから野球をやりたい、そして、どうせ野球をやるなら最高の形で終わりたいね、というのが花咲徳栄のスタンスだったのではないか。
野球と心中する、というような雰囲気は全くなかった。
多分花咲徳栄の選手は負ける事を恐れてはいなかったと思う。
野球がダメでも他に楽しいことはいくらでもあるのだ。
もちろん今回の選手権で花咲徳栄が本気で勝ちに行ったのは間違いない。
高橋昂也がエースだった去年の選手権の3回戦、いきなり先発を任された綱脇は1回と3/2で5点を失って負けている。
なんとしても勝ちたかったはずだ。
そしてコントロールがよく、身長が180cmくらいで体重が80kgほどの選手が二人揃う、という事はめったにあるものではない。
だから花咲徳栄が本気で勝ちに行った事は間違いないことで、実際に勝つためにここまでやったのか、と驚くような練習をしている。
しかし勝ちに行ったはずなのに、花咲徳栄からは負ける事に対する恐怖は全く伺えなかった。
NHKが全国中継という華やかな大舞台を用意しているおかげで甲子園というのは特別な意味を持つ大会になっている。
しかし、ある意味甲子園というのは部活に過ぎない。
どんなに甲子園で大活躍して優勝した選手でも普通は大学野球か、社会人野球(強豪企業の一軍でNPBの2軍くらいの強さである)のレベルに落ち着く。
それは甲子園の優勝投手でもそうで、プロに行くよりも大学か社会人野球で引退する人のほうが多い。
甲子園で優勝しても大学野球で通用するかは分からない。
なにせ一つのチームに投手だけで何十人もいるのだ。
そしてその一人ひとりが高校では(有名無名かはともかく)見どころのあるエースだったのである。
投手以外でもこれは同じで、一つのチームにいる何十人の内野手、何十人の外野手はみんな見どころがあると認められて大学で野球をやっているのだ。
なので大学野球や社会人野球のレベルは甲子園のレベルとははっきり違う。
現に高校のベストメンバーを集めたU18日本代表は大学のチームと2回練習試合をして、2回とも負けている。
どれほど感動的であっても甲子園の野球は所詮、子供の野球である。
たとえ優勝しても翌日になればそれは「過去の栄光」なのだ。
実力がすべての野球の世界で(あるいは、より一般に言って社会人生活で)「過去の栄光」など何の意味もない。
勝つにせよ負けるにせよ、意味があるのは結果に至るまでのプロセスの方である。
花咲徳栄はこの事をよく理解していたのではないか。
そしてこの事をよく理解していたからこそ花咲徳栄は負けを恐れる事なく、甲子園という大舞台で全力を出せたのだと思う。
夏の甲子園が終わってネットをしていたら、岩井監督が甲子園の前に花咲徳栄について語った次の記事を見つけた。
今後、花咲徳栄で3年間を過ごす選手にはどうなってほしいか尋ねると、第一声はこうだった。
普通の子でいてほしいかな――。
勝ち気であってほしくないし、野心でギラギラしてほしくないし、あわよくばわよくばクラスの中で目立たなくてもいい。一般社会に溶け込んでいて、フタを開けてみたら、アイツ野球部だったんだって……。そう思われるくらいでちょうどいい。
みんな勘違いしてさ、廊下でもやたらと大きな声で挨拶するんだよね。でも近い距離でそういう挨拶をしたら、普通はうるせぇなってなる。だから、その場の雰囲気を察して使い分けなければ意味がないんだよと。
世の中には野球を知らない人のほうが多いわけだし、一般社会では『野球をやっていたからこういうふうにできます』って言えるようにならないとダメだと思うんですよ。だって他の人からしたら、毎日野球をやっている俺たちを見て、バカじゃねぇのって思っていることもあるだろうし。
それでも野球をやるっていうのは、人生の修行みたいなもの。武士の“武”っていう字はさ、戈(ほこ)を止めるって書くから武器を出さないっていう意味。つまり、黙っていても相手が強いって思ってくれるということでしょう。それと同じで、俺は野球部なんだって威張っているようじゃダメなんだよね。
「高校野球は高校の部活動なんだから、学校が認める野球部にならなければいけない」というのが岩井の考えだ。
これを読んで、やっぱりな、と思った。
確かに花咲徳栄の選手は試合中でもギラギラしているわけではなかったし、やたらとデカい声を出すわけでもなかった。
みんなどこか控えめで、野球部だからといって威張っていそうな選手はいなかった。
そしてそのような心の在り方が、今年の花咲徳栄の本当の強さになっていたと思う。
今回の甲子園で、選手を容赦なく追い込んでいくタイプの学校はうまくいかなかった。
もちろん外部から切り離された環境でひたすら野球に取り組んで優勝する、というのはそれはそれで立派な事である。
しかし多くの「球児」が目標とするプロ野球の選手だって、別に全寮制の生活をしているわけではないしスマートフォンの所持を禁止されているわけでもない。
それを考えると今回「普通の子」が甲子園に優勝した事は高校野球にとって非常に大きな意義があったと思う。
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夏の甲子園 決勝 広陵 4-14 花咲徳栄
やはり広陵の脆さが出た。
僕は今年の広陵は一定の凄みはあるが脆さもあるチームだと思っていた。
確かに甘い球も甘くない球も容赦なしに打ちまくる打線は今大会の出場校の中でも傑出していたと思う。
明らかに今年の広陵は普通ではなかった。
選手の雰囲気からも「優勝が狙える」という勢いがあった。
昨年に優勝した作新の雰囲気に似た雰囲気のあるチームだったと思う。
しかし打撃以外の部分に関して言えば、今年の広陵は見ていてちょっと微妙かな?と思う事が少なくなかった。
最大の問題はエースが不調な事である。
広陵のエース格の10番だけで花咲徳栄を抑えるのはかなり厳しい。
かといって不調のエースが逃げ切れるほど花咲徳栄の打線は甘くない。
一方の花咲徳栄の投手はどちらもコントロールがよく、大量得点をするのが難しいタイプである。
もう一つ今年の広陵で微妙だったと思うのは守備である。
広陵の守備には凄みを感じなかった。
去年の作新は守備においても容赦がなかったが、今年の広陵の守備は一言でいうと普通だった。
守備が普通だと投手が打線に押されている場合に大変になる。
そしてエラーが焦りを呼んだのか、普通ならば考えられないようなエラーでの失点も相当していた。
広陵にとっては、マスコミがプロ注の捕手の周りに集まって大騒ぎするのもよくなかったと思う。
広陵の選手はセミプロみたいなものとはいえ、なんだか見ていられなかった。
花咲徳栄の綱脇と清水は決勝でもすばらしいピッチングをしていた。
変化球がズバズバとストライクになるのは見ていて気持ちがいい。
遅いボールも、普通の投手が投げると大体ボールになるけれども綱脇と清水が投げるとストライクになる。
やはり投手はストライクを取れてナンボである。
特にプロ注の捕手を三振にする所は最高に恰好がよかった。
今回の大会で注目されたのは、もちろん5試合で6本のホームランを打ったプロ注の捕手である。
でも僕はやっぱり広陵の主役は一番多くのイニングを投げたエース格の10番だったと思う。
決勝では6点を取られたが、これだけ甲子園で活躍をするというのは本当に素晴らしい。
夜テレビを見ていたら、広陵の選手がスカっとした笑顔でエースに「お前がエースで良かったよ」と言っていた。
それを見て「中井先生」は勝負には負けたけれども教育者としては成功したんだなあ、と思った。
優勝して得るものもあれば、準優勝してこそ得るものもある。
今回の試合の采配にも勝敗以前に、もしかしたら教育者としての配慮があったのかもしれない。
続き
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天理 9-12 広陵、東海大菅生 6-9 花咲徳栄
一日だけ間が空いて、今日は天理と広陵、東海大菅生と花咲徳栄の試合だった。
ここまでくると、ものすごい勢いで結果が決まっていく。
天理 9-12 広陵
妥当な結果ではないだろうか。
やはり、総合的な戦力では広陵のほうが上だったと思う。
打撃力に関してはどちらも驚くべきものがあった。
強力打線という表現はよく使われるが、天理と広陵のどちらの打線も本物の強力打線だった。
どちらのチームも、ストライクゾーンすれすれの球だけでなく、明らかにボールのような球でも打ちまくる。
甲子園に出場してきたチームはどこも特別なチームだが、さすがに4強レベルになると違うな、と思って試合を見ていた。
東海大菅生 6-9 花咲徳栄
花咲徳栄のエース、清水がエースとしての底力を見せたゲームだったと思う。
これまで花咲徳栄で先発をしていた綱脇には疲れが見えた。
一昨日のゲームではずば抜けて安定した投球をしていたのに、今日はやや不安定な様子だった。
甲子園では10-1でも10-9でも結果は同じなので、力の差があった盛岡大附との試合ではもう少し疲れない勝ち方をしてもよかったのではないか。
4回から継投した清水は、前の試合での投球回が少なかった事もあって安定感抜群だった。
9回に2点を失って同点にされたものの、あとは無失点に抑えたのはさすがである。
延長11回表は死闘になった。
ギリギリの偶然が重なって入った3点だと思う。
2アウト2塁から難しい所に転がったボテボテのゴロで2アウト1、3塁、さらに初球から走って2、3塁。
そして、甘いところに入った球を長打にして2点、それからキャッチャーが変化球をはじいてもう1点。
継投した山内はよく投げたと思う。
押し出しを避けるために、少し球が甘めに入るのは仕方がない。
しかし、いままで甲子園で登板がなかった投手をこの局面で出すのはちょっと難しかったのかな、とも思う。
3回戦まで10点差、8点差、8点差で勝っているのだから、もう少し早い段階で出して投手にかかる負担を分散させたほうがよかったのではないだろうか。
花咲徳栄は少し普通のチームと違った雰囲気があると思った。
良い事があっても、悪い事があっても動じないのだ。
目先の事にそれほど一喜一憂しないのである。
極限状態でも、花咲徳栄には余裕が見えた。
それでいて、集中力はしっかりあるのだから不思議である。
東海大菅生は守備に凄みがあった。
送球も早いし正確である。
失策もあったが、失策した後の送球を見ると本当にすごい。
焦って暴投して大惨事、みたいな事にはならないような感じの守備である。
東海大菅生の3投手はよく投げたと思う。
どの投手にも勢いがあり、見ていて気持ちのいいピッチングだった。
2年生ピッチャーの戸田の投球フォームがド派手なのにも驚いた。
決勝はどうなるか?
花咲徳栄の主将の千丸が「戦力的には7対3か6対4で負けている」というように、戦力を考えれば広陵のほうが有利なのだろう。
なにせ、広陵にはあのプロ注のキャッチャーがいる。
局面を一発で変える長打やホームランが確実に期待できる、というのは大きい。
しかし、広陵は打撃は安定して超強力だけれども、全体として完全な安定感があるとまでは言えないと思う。
何かのきっかけで崩れる事は十分ありうる。
花咲徳栄には独特の安定感がある。
東海大菅生に勝った事で、花咲徳栄は「優勝できる」という確信をさらに強めた。
もし戦力の差が大きくないならば、花咲徳栄の方が有利なような気もする。
夕張の財政破綻とベーシックインカム
夕張というと、昔はメロン、今は財政破綻で有名だが(今でも、メロンはそれなりに有名なのだろうが)、この夕張の財政破綻を取り上げた興味深い記事を見た。
考えてみたら、夕張というのはもうあえて行こうとする人がいないような所になっているわけで、そういう中で夕張に行って実情をレポートするというのは非常に価値のある事である。
この記事では、夕張が破綻をした理由として、炭鉱に代わる、しかも石炭産業と同じくらいの豊かさを約束するような産業が採算がとれるはずもないテーマパークなどの建設くらいしかなかったから、と分析している。
僕は今まで夕張がもともとは炭鉱で栄えた町である事を知らなかったが、たしかにこの事実を認識していないと、どうして夕張がこうなったのかわからない。
たしかに、なまじっか石炭の採掘から来る富(と、それに関連する山師的なメンタリティー)があったので、夕張が杜撰な公共事業に邁進した、というのはリアリティーがある。
この記事も指摘しているように、一度豊かな生活に慣れてしまうと貧しい生活に戻るのは難しい。
カネがかからなくてもそれなりに満足する生活を送るには知恵が必要で、豊かな生活を送っているとその知恵が失われてしまうのだ。
リスクを取れば大金を手にできた夕張では、堅実に生計を立てるという習慣があまり根付いていなかったのだろう。
しかし、僕はそれに関連する話として次のような下りが気になった。
国や道は1990年代から夕張の破綻を予期しながら、無許可起債に手を貸してきた。傷を広げたリゾート開発の絵を描いたのは東京のコンサル会社だし、頼る親戚なり労働市場で売りになるスキルを持った人は夕張を逃げ出してしまっている。市役所職員の待遇は全国最低水準だが、現在の職員の約6割は財政破綻時は無役の係員で、破綻後に入庁した職員がすでに約3割を占めているという。そもそも夕張市の債務は誰が積み上げて、本来であれば誰が返済すべき債務なのだろうか。
夕張の借金が何百億あるのか知らないが、この何百億は一体どこにいったのか。
もちろん、この何百億のいくらかは夕張市民の生活を回すために使われたのは間違いない。
しかし、公共事業の常として、こういう何百億からはものすごい中抜きが行われる。
そして、その中抜きを行っているのは「東京のコンサル会社」だったり、「労働市場で売りになるスキルを持った人」だったりする。
こういう人達は夕張で儲けるだけ儲け、その結果生じるコストに対して一切コストを負わない。
コストを負うのは、受動的にこのスキームに加担をした、夕張から動けない夕張市民である(まあ、ある程度は国民負担になりそうだが)。
左翼はよく、税金がムダに浪費された、というが、この言い方は非常によくない。
これでは使われたカネがなくなるように聞こえてしまう。
しかし、カネというものはなくならない。
「消費された税金」は、だれかが持っている。
具体的には、だれかの(あるいは、どこかの)銀行口座に移動しているのである。
夕張の場合、もし借金の何百億が全額夕張市民の手に渡ったというならまだよい。
しかし、夕張市民が負うのは、抜かれた分を含む数百億なのだ。
これは2段階のババ抜きである。
まずババを引くのは夕張市民で、それから夕張市民の間でもババを引く人と引かない人が決まってくる。
そして、日本ではこの手のババ抜きをして大金を儲けるスキームがものすごい発達しているのだ。
ベーシックインカムの利点の一つに、この手の中抜きがない事がある。
公共事業というのは、その事業がどれくらい有益であるか、ということ以前に、雇用を確保するという目的がある。
雇用を確保する必要などない、夕張の市民だってそこを立ち去る権利がある、と新自由主義者は主張するだろうが(そして、この議論はそれなりに正当なものだが)、しかし現実問題としてはなかなかうまくいかない。
たとえば、経済合理性だけを考えれば、北海道というものは北海道だけでは成り立たない。
北海道というのは、本土のカネがなければ成り立たないのだ。
しかし、北海道が経済的に成り立たないからといって、北海道をロシアや中国に売り飛ばすわけにはいかない。
それと同様、夕張のような田舎というのも、やはり日本には必要である。
ところが、それでは住民の雇用をどうするか、ということになると、現状では(直接的か間接的か、という違いはあっても)先ほどいったようなババ抜きをするしかなない。
こういうババ抜きのスキームを組む連中がどういう連中なのか、薄々は気づいていても、である(まあ、業者のほうはクライアントの要求するものを出しているだけ、というのもあるが)。
世間では無条件で、働く事は良い事だ、と決まっている。
しかし、労働を通じたリソースの分配には必ず中抜きが伴う。
そして、近年の日本の低迷は、この中抜きのからくる非効率性が大きな原因になっている。
ところが世間では、この中抜きに従事している人も「真面目に働く社会人」として評価される。
忘れてはならない。
夕張の中抜きスキームで大金を儲けた連中も、「一生懸命働いた」のだ。
これからの社会には、絶対にベーシックインカム的な手法が必要である。
ベーシックインカムによって生じる問題はあるだろうが、少なくともババ抜きを続けて夕張状態になるよりはマシだろう。
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広陵 10-4 仙台育英、花咲徳栄 10-1 盛岡大附
今日は甲子園で3回勝った8チームによる、4強入りを賭けた試合が4試合あった。
そのうちで光陵対仙台育英と花咲徳栄対盛岡大附の2試合を見たので、感想を書こうと思う。
広陵 10-4 仙台育英
広陵には去年の作新ほどではないにせよ、一定の凄みを感じた。
仙台育英は、前半にバカスカ6点を取られて諦めムードが出たと思う。
光陵の控えも好投。
後続は微妙な投球だったが、満塁が2回あっても逃げ切ったのでそれなりに力があるのだろう。
仙台育英が必敗、というゲームではなかったと思う。
しかし、やはり投打ともに力の差があったかなあ、という感じである。
連戦のために、その余裕の差が出たようなゲームだった。
仙台育英としては一日で夢から現実へと引き戻された形といえるが、選手も結果には納得しているのではないか。
花咲徳栄 10-1 盛岡大附
同じ8強の強豪校なのに、なんでこんなに違うのだろう?と不思議に思いながら試合を見ていた。
盛岡大附の方は、手も足もでない、とか、全く歯が立たない、という形容がそのまま当てはまりそうな試合内容だった。
盛岡大附の投手が特に調子が悪いようには見えなかった。
むしろ調子は良さそうだったのに、コンスタントに打たれて10点である。
それほど大崩れはしていないのだが、コンスタントに10点取られるということは花咲徳栄の打線がそれだけ強力という事なのだろう(後でネットを見たらプロ注が何人かいた)。
一方で、盛岡大附の打線は花咲徳栄に完全に押さえこまれ、安打数はわずかに6、本塁打数はゼロである。
完全に何もできない状態だった。
全国的に名の知られたスラッガーの植田も、今日は一つの安打も打てなかった。
まあ、盛岡大附の監督は「始めに一点を取っていたらこういう展開にならなかった」と言っているので試合内容ほどの実力差はないのかもしれないが、とにかく、今日の花咲徳栄の先発の投球は冴えわたっていた。
打ったとしても、打球が全く前に飛ばない。
こういうピッチングをされたらどうしようもない、という投球だった。
花咲徳栄は雰囲気に全然泥臭さを感じなかった。
スマートに相手打線を抑え、スマートに点を取っていく。
それは試合内容が一方的だったからかもしれないが、それだけではないような気もする。
例えば、ホームランを打ってガッツポーズをしても目が笑っていない。
あれは優勝しか見えていない目だと思う。
目先の事など大して関心がないのだ(大阪桐蔭には、この点において甘さがあった)。
おそらく、花咲徳栄の選手には、優勝できる、という確信があるのだろう。
僕は、この花咲徳栄がどういう勝ち方をするか、あるいは負けるとしたらどのような負け方をするかに非常に興味を持っている。
花咲徳栄のピッチャーが次の試合も、今日見られたような絶好調のピッチングが出来るかにも注目したい。
試合に負けた後も、盛岡大附の選手は一人も泣かなかった。
少し寂しそうな様子でも表情は晴れやかだった。
夕方という時間帯もあいまって、これも最高の夏の終わり方だったのではないか。
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